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ディープインパクト死す。2019/07/31 08:44

夜勤明けで軽めのZwift。



風呂入ってテレビをつけたら
あのディープインパクトが亡くなったとの事。


マジか、まだ17歳なのに・・・。


あの伝説的種牡馬サンデーサイレンス(注1)の
最強産駒だったディープインパクトが・・・残念。


あの戦後初の3冠馬シンザン(注2)が35歳まで
生きたというのにディープはその半分・・・重ね重ね残念。


武豊を背に無敗の3冠ロードも素晴らしかったけど
ディープインパクトで忘れられないのが
2戦目の若駒ステークスの走り。


一頭だけ動く歩道の上を走っているような
一頭だけ飛んでいるような・・・
一頭最後方から飛んでくるような凄い脚。


個人的にはあの若駒ステークスの
走りはディープインパクトのベストだと思う。
(興味のある人は動画サイトで「ディープ 若駒」でどうぞ)


これだけの名馬だから名実況も数多い。
三宅アナや菊花賞の馬場アナの実況も素晴らしい。
特に馬場アナの実況は後世に語り継がれる名実況だと思う。

だけどオイラはこの若駒ステークスでの
梶原誠アナの強引で捲し立てるような実況が
たまらなく好きで病みつきになっている。


「ディープインパクトがじわじわと迫ってきた!
残り200を通過、一気に加速ぅ!ディープインパクト衝撃の末脚!
一気に抜けてきた!強いっ!強すぎる!・・・」


この時の映像はカメラワークが粗削り過ぎたけど
梶原アナの実況と相まって「ディープインパクトの若駒」の
映像として一生頭から離れることは無いだろう。




ディープの引退レースになった2006年の有馬記念は
年休を取って雄姿を見たのはいい思い出だ。

馬券は外れて中山競馬場の地下の食堂街で
チューハイ片手に引退セレモニーの映像を見たのも思い出だ。


競争成績は無敗の3冠制覇を含むG1・7勝という
文句のつけようのないほど優秀で
その産駒もまた素晴らしい馬が多い。


マカヒキ、ディープブリランテ、ジェンティルドンナ・・・数え切れん。

そんな中でもキズナは印象に残っている。
この馬が武豊と共にダービーを優勝した時や(当時のブログ
凱旋門賞に出走した時のことは忘れられない。(当時のブログ


あぁ、何でこんなに早くいなくなってしまうんだろう。
せめてあと5年生きていれば欧州競馬で欧州のディープ産駒と
日本のディープ産駒が鎬を削る・・・なんて映像も見れたかもしれない。



本当に残念です。
あの世でもお元気で。



(注1)サンデーサイレンス・・・

アメリカ生まれの競走馬で種牡馬。
競走馬としてはアメリカ3冠のうち2冠(ケンタッキーダービー・
プリークネスステークス)やブリーダーズカップ・クラシックなど
G1・5勝を挙げるなど大活躍をした。

特にアメリカでの現役時代におけるイージーゴアーとの
ライバル対決は今でも競馬ファンの語り草になっている。
(↑これを書いてしまうと収拾がつかないくらい長文になる
危険性があるのでここでは割愛させていただく)


しかし現役引退後のサンデーサイレンスは悠遊と
アメリカで種牡馬生活・・・とは行かなかった。

競走成績は優秀だったものの血統的な評価が低く、
種付け希望者がたった2人だけと言う有様だったらしい。


そんなサンデーサイレンスの購入に動いたのが
今や日本の競走馬生産を実質的に支配している
社台グループの創始者・吉田善哉であった。

当時、吉田がサンデーサイレンス購入にぶち込んだ額は
1100万ドル(当時のレートで約16億5000万円)と言われている。
吉田善哉の執念が実り、サンデーサイレンスの
日本での種牡馬生活が決まった。

当時この取引は「成功しそうに無い種牡馬を日本の
ブリーダーが買っていった」とアメリカの生産者たちの
笑いのタネになったが最終的に高笑いしたのは社台グループだった。


1991年から日本で種付けを開始した
サンデーサイレンスの子供たちは良く走った。

初産駒がデビューした翌年(95年)から2007年まで
13年連続でリーディングサイア―を独走した。
サンデーサイレンスの子供たちは国内はもとより
海外でも良く走ったし、よく勝った。


産駒で出た12世代全てでG1競走の優勝馬を輩出、
1100万でスタートした種付け料もピークでは2500万に
跳ね上がり、年間200頭以上と種付けをするほどの人気者になった。

累計種付け頭数は1837頭で、
売上総額は400億円以上ともいわれた。

これは純粋に種付けだけの数字であって
実際に子供たちが取引されれば1頭に億単位の金が
動くのが度々であったから実際の経済効果はどれほどの
ものがあったのだろうか。

ただ一つ残念なことはサンデーサイレンス購入に
執念を燃やした吉田善哉は産駒のデビューを
見ることなく93年にこの世を去っている。





(注2)シンザン・・・
名伯楽・武田文吾調教師に見いだされ
戦後初のクラシック3冠をはじめ有馬記念、天皇賞(秋)を優勝。
当時牡馬が出走可能な全てのG1・5勝し「5冠馬」と呼ばれた。

連続の連対(1着または2着)記録は19にも及び
あのビワハヤヒデ(15連対)、ダイワスカーレット(12連対)をも
超える今でも中央競馬のレコードだ。


シンザンの現役時代はその余りにも強力な脚力ゆえに
走行中に前脚の蹄鉄と後ろ脚の爪が接触、
爪から出血してしまう問題が生じた。

その対策として後ろ足の爪を守るため
後ろ脚用の蹄鉄がスリッパ型の「シンザン鉄」なる
蹄鉄が考案されたりした。


引退後は種牡馬になってミホシンザンやミナガワマンナを輩出。
当時、外国産種牡馬に押されまくっていた風潮に風穴を開け、
内国産種牡馬のパイオニア的存在になった。


かくゆう私もかつては浦河の谷川牧場にいる
シンザンを見たくて1996年7月に北海道へ初の一人旅を決行。

牧場へ行ったもののシンザンは体調不良で見学できず
翌日、現地でシンザンが大往生を遂げたというニュースに聞き
衝撃を受けたことを今でも覚えています。(当時の事




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